吉原山城

別名 峰山城 付近住所 京都府京丹後市峰山町赤坂 現在 権現山
2010/4/29 碑・案内板アリ 日本城郭大系


一色(吉原)氏→
細川氏→
京極氏
吉原山城は一色、細川、京極三氏の城地として、約500年の間、丹後の政治軍略の中心であった。しかし城といっても天嶮を利用した山城であり切崖や堀割の上に平坦地を造り柵をめぐらし、木戸を構えて敵襲の場合は逆茂木を埋め陣屋を建てて寄手を防ぐという極めて原始的なものであった。嘉慶2年(1388)守護一色詮範は吉原山祇山(やまずみやま)に始めて山城を築いて立てこもったがその後、山頂の人呼びの嶺を本丸と定め西丸や三段の砦を設ける等、本格的な築城にかかり守りを固めた。織田信長の天下統一とともに城主は細川氏に代わり細川興元は天正10年(1582)本丸に御陣屋を建て、二の丸、三の丸をおき寺谷の東(今の上町)に市街地を開いて嶺山と名付けた。徳川時代になってから藩主は京極氏に代わり初代、高通は元和10年(1624)お国入りをして城下町を造り峰山町と改称した。この頃になると城砦の必要がなくなったので山城を廃して藩主の居館(御陣屋)、御蔵、表門、侍屋敷、御粗長屋等をつくった。吉原山は京極氏が山頂に蔵王権現を祀っていたことから権現山と呼ばれるようになり、現在に至っている。

吉原山城は、14世紀末に一色氏によって本格的な築城が行われましたが、天正10年(1582年)、一色氏の滅亡により細川興元が入城しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後、京極氏が丹後の領主となり、京極高通が分封されて峰山藩1万石を治めましたが、城は再建されず、麓に陣屋を築きました。今でも、吉原山城の本丸、二の丸、産の丸、善明砦、搦手口などの跡が良好に残っています。

            

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